昨日、人から見られる自分もいることに気づいたという話を書いたので、今日は自分が思う自分について書きたいと思います。
自分に正直でありたいとか、自分らしくありたいと思う人はたくさんいます。かく言う自分も風のように生きたいと言って入社したし、人は自分らしく生きている人にあこがれるものです。
そして、みんな自分を探し始めます。
しかし、自分が「自分」と思う「自分」とはそもそも何なのか?
自分探しの果てに、自分が見つける「自分」。それは、昨日も書いたように、自分から見た「自分」であって、人から見た自分とは全く違うかもしれません。
そんな「自分」に囚われて、自分らしく生きている自分とは、自由で幸せな人なのか、不自由で囚われの人なのか?
自分らしく生きようと歌う歌は多いですが、そう歌う人の中には、自分を見失って自殺したり、自殺かのような事故死をする人も少なくありません。
日本では尾崎豊とか。
(尾崎豊ファンの方すいません)
自分らしく生きると歌っている自分、そんな自分に対する人からの期待とあこがれ、社会における自分の居場所、本当の自分とのちがい、気になりだす人々の視線、そうした矛盾や不安に押しつぶされて人は死ぬのかもしれません。
自分らしく生きているはずが、いつのまにか他人が求める自分に囚われ、不自由になってしまう。
自分らしく生きるっていっても、自分が自分らしいと思って生きて、その結果が人からも認めてもらえるうちはいいけれど、それが一生続くなんてことはまずありません。
その一方で、人からどう思われようと、自分を自分一人が信じればいいと思って生きられる人なんて、なかなかいるもんではありません。
結局、自分らしい自分なんていない。
いるのは、今の自分だけ。
今ここに、自分の目の前にいる人、時間を大切に感謝して生きる。その自分を「素直」に受け入れる。
禅のお坊さんが悟りとは平気で生きることだとおっしゃっるのを聞いたことがあります。そのお坊さんは一日一日ではない。一分一秒でもない。
一息一息、大切に生きてくださいと言われていました。
人はいろんなことに悩んで生きる動物ですが、シンプルに一息一息の呼吸もなおざりにせず、ちゃんと生きることを重ねるしかない。
そこから生まれる結果、そこから生まれる自分はきっとそう悪くない自分だと思います。
必ず学べることはある
学んだことは次の人にわたす
Everything is beautiful, nothing hurt