いじめや差別がなくなることはありません。問題だと言われながらなぜなくならないのか?
いじめにしても差別にしても理由は同じ。「他を否定することによって、自分の正しさや良さを確実にする」ということに尽きると思います。
今は何が正しいのかがわからない時代になりました。そんな時代のなかで、どうやって自分の正しさに安心するのか、その一つの方法が他を否定することです。
「自分が親に言われてイヤイヤ守っていることを守らずにやっている人に強くあたる」「仲間はずれにされそうになって他の誰かを仲間はずれにして仲間に残る」「勉強もスポーツもできない子がもっと出来ない子をいじめて、こいつよりはマシと自分を納得させる」・・・・、
いじめのパターンは色々あって、分析もされていいますが、いじめの原因は全て同じだと思います。
校内いじめがなぜ昔はなかったのか?
先生が正しいことに誰も疑問を感じなかったからだと思います。
いじめはなぜ都心や田舎よりも、都会のはしっこ、都心と田舎の境界エリアに多いのか?
そこは何でもありの都心と昔ながらの価値観が残る田舎の間で、正しさがゆらいで矛盾がもっとも強くでる場所だからではないかと思います。
いくら先生や学校が頑張ったって、世の中何でもありだということはもうばれている。
何でもありだということを前提にした教育であるべきなのに、学校側は古い価値観を押し付ける。
勉強かスポーツができなければ、取り柄のない子になってしまう。
本当は人一人ひとり何か良いところはあるはずなのに、その良さか認められることなく、勉強とスポーツだけで人の序列ができてしまう。
そりゃ、ストレスも溜まります。いじめや差別は大嫌いですが、そんな環境のなかで、人は他を否定することによって、俺はここにいる!という心の叫びをあげているのだと思います。
ヨーロッパに赴任していた頃、子供がインターナショナルスクールに行っていましたが、
インターナショナルスクールにはいじめがありませんでした。子供を計る物差しが勉強とスポーツだけではないのです。
カリキュラムだって、日本の大学のように、その子にあわせてつくられます。日本のようにみんなが同じ授業が聞くわけではありません。
一人ひとりが違い、各々に各々の良さと課題があるということが大前提になっているから、誰かをいじめることに意味がなくなってしまいます。
最近のあおり運転やバイトテロも根っこは同じだと思います。
勉強とスポーツで認められず、社会に出てからもその状態が続いている人たちが俺はここにいる!と叫んでいる。
わざと怖がらせたり、悪いことをして、注目されることによって、世の中に自分が生きていることに気づいてもらおうとしているのだと思います。
だから、報道すればするほど、同じことをする人が増える。注目されることがわかったから。
昨日は欧州と日本の会議の違いを書きましたが、それもまた同じ。
決められた価値のものさしだけで人や社会を測らないこと、一人ひとりが一生懸命、誠実に生きること、
その正しさを皆がリスペクトすること。
そんな教育や社会のシステムが必要とされているとヨーロッパで感じました。
必ず学べることはある
学んだことは次の人にわたす
Everything is beautiful, nothing hurt