「こだわりをもて。しかし、囚われるな」
マージャンのうちかたや心構えに対して、こだわりをもってうつ。
心をつねにまんなかにおいて、どんな変化にも間に合うように準備をおこたらない。
つもったら一秒で決断して牌をきる。
きったら、次の準備のために後片付けをする。
ここというきびしい局面で逃げない。
こころは常にやわらかくする。などなど。
逆に囚われとは、
とにかく一番になりたい。
大きな手で勝ちたい。
ドラ牌をすてない。
手段を選ばす勝つ。などなど。
そういうことに気持ちに囚われてうつ。
マージャンでは、
こだわりをもって打てば負けないが、囚われてうつと負けるそうです。
人生も同じだなぁと思います。
しかし、こだわりをもってやろうが囚われてやろうが、決めた行動を変えないという意味ではまったく同じ。
紙一重のちがいなのに、その違いで勝ち負けが決まってしまう。
自分でも何かをすごく大事にしているとき、それがこだわりなのか、囚われなのかわからなくなることがあります。
たとえば、一番になることにこだわることと、一番になることに囚われることとのちがいは何なのか?
昨日書いた割烹料理屋さんは「最高」にこだわっていますが、「最高」の場合、「最高」に囚われるとはあまり言いません。
一番になることにこだわるとは、最高になることにこだわること。一番は最高になった結果であり、目的ではない。
一番になることに囚われるとは、一番ですごいと言われたい思われたいという欲に囚われている。だから、一番になることそのものが目的となる。
囚われるといえば、「過去の成功体験にとらわれるな」とよく言います。
過去の成功体験は、なにか目的を達成するためにしたことです。だから、最初は囚われてしたことではありません。むしろ、目的を達成することにこだわってしたことです。
でも、そのやったことに対する
こだわりは、世の中が変わって、その方法が役に立たなくなったとき、囚われに変わる。
また、
自分が思いどおりにいかないとき落ち込むのは、自分はこれだけやったのにという努力の量にとらわれている。
目的にこだわっていれば、落ち込んでいるひまはなく、まだ努力が足らないんだともっとがんばるはずです。
こだわりは未来。囚われは今。
こだわりは世の中のため。囚われは自分のため。
こだわりは道をひらくが、囚われると道をあやまる。
必ず学べることはある
学んだことは次の人にわたす
Everything is beautiful, nothing hurt