誰かと話しているとき、それは対話をしているのか?独白をしているのか?
誰かと話していても、実は独白、自分に話しているのと変わらないということはよくあります。
昔、「探求」というちょっとむずかしい哲学の本を読みました。
「話す」「聞く」の関係で話している人は独白しているのと同じだ
とその本には書いてありました。
たとえば、悩みやグチを聞いて、解決する方法を意見すると怒るケース。
「でも」と言って、何を言っても「なるほど」とは言わない。
言わないどころか、「聞いてわかるって言ってほしいだけ」と言って怒る。
これは、共感してほしくて話しているわけで、他人のなかの自分を見つけようとして話しているのと同じ、独白です。
たとえば、相手の反応を確かめながら話すケース。
自分が話しながら、相手の顔を見て、自分が言っていることが正しいかどうかを確かめる。これはまるで話している相手を自分の鏡にして話しているようなもので、これも独白です。
対話というのは、他者と語りあうこと。「教える」「学ぶ」という関係で話すことです。
自分とちがう人と話を交わして、話しながら相手から学ぶ。教えるというのと、伝えるというのとは違います。
異なる相手が学ぶわけですから、相手が自分から何をどう学ぶのかはわからない。自分が学んでほしいと思うことをそのとおり学ぶとは限りません。それをわかってないと言ったら、自分の考えをおしつけることになる。それでは独白です。
話していて、どうしてこんなことを言うのだろう?どうしてこんなにおこるのだろう?悲しむのだろう?そういった自分が理解できないことと出くわしたとき、それは他者に出会ったときです。
その相手をおかしいと思うのではなく、なぜそうなるのかをグッと考えてみる。
そして、自分なりに納得いくわけをみつける。
そのとき、自分がそれまでは感じることができなかった何かを感じることができるようになる。これが学びです。
そうやって学びあうこと。それが対話です。
だから対話は、自分が一人の人、昨日書いたように孤独に向きあい、楽しむことができる人でなければできません。
自分をしっかりもった人と話すのって、なんだかとても安心して話せるし、話しながら何か学ぼうという気持ちになります。
そんなふうに話せる人になりたいなと思います。
必ず学べることはある
学んだことは次の人にわたす
Everything is beautiful, nothing hurt